土曜日の朝、彼女は午前六時半に目を開けた。 平日より、少しだけ遅い。
リネンのカーテン越しに、五月の光が差し込んでいる。温かくも冷たくもなかったが、薄手の布団が肌にまとわりつくのが気持ちよくて、起きない言い訳を作るように何度か寝返りを打った。
窓の下、街路樹の若葉が、風に小さく揺れている。ベッドから出る前に、しばらく天井を眺めていた。 この部屋に越してきて、もう三年が経っていた。
手触りの良いコットンのシーツをなでおろすように整え、バリで買った麻のサンダルをはく時、はじめて有機的な音が部屋に響いた。ホワイトオークの床に、麻がかすかに擦れる音がした。それが好きだった。
なにか休日らしいものが食べたくなったので、ホットケーキを焼くことにした。三か月に一度、三段重ねのホットケーキが食べたくなる。それは、メレンゲを巧みに使い雲のように仕上げたそれでも、銀座で食べるリコッタチーズがベースのそれでもない。レコードが流れる神保町の古い喫茶店のやつだ。どこか無造作に重ねられた、あの密度を欲していた。
彼女は机にある小さな手帳を開き、手のひらで見開きを押さえた。
「あった。」
3、5、3、2。
図書館で見つけたレシピを、手帳に書き写したもの。ページの端に、スプーン何杯かの配合だけが書かれている。探しやすいように赤ペンでしるしをつけていた。
紙を片手に階段を降り、棚の奥から米粉のパウチを探した。一年前に買って以来、あまり使っていなかった。きっと今日のために残っていたのだろう。
紙箱から赤茶の卵をひとつ。ステンレスの無機質なグレーに、もったりとしたベージュの生地が混ざり合う。
スキレットを火にかけて、ペティナイフからバターを削るように落とした。透き通る液体がぱちぱちと音を立てるあいだに、彼女は窓の外を眺めていた。犬の散歩の時間だ、と気付いた。
ふと、ゴールデンレトリバーの食事量が気になった。コンロの火を弱め、階段を駆け上がってスマートフォンを手に取る。
画面には昨晩の通知が浮かんでいた。見慣れない差出人。由香からだった。
「来週末、麻布で集まりがあるの。来ない?みんな久しぶりに会いたがってる」
彼女は一瞬立ち止まり、階段を降りながら返信を考えた。 「久しぶり。誘ってくれてありがとう。でもその日は予定があって、ごめんね。」
それ以上の説明は書かなかった。 予定は、空いていた。 でも、空いているから、今回は行かなくていい、と思った。
キッチンの香りが変わったことに気づき、慌ててスキレットに、生地を流し込む。 表面に小さな気泡が、ゆっくりと浮いてくる。 気泡が均等に開くまで、待つ。 ひっくり返すと、こんがりとした円が現れた。
彼女は声に出さずに、少しだけ嬉しかった。
皿に移して、蜂蜜を静かに垂らした。飴色の液体が、こんがりとした表面を覆っていくのを瞬きもせずに見ていた。
窓辺の机に座った。端に置かれた読みかけの本が目に入った。須賀敦子の「ミラノ霧の風景」。 何度読んでも、同じ場所で、少しずつ違う光が差す本。
刃先をそっと生地にいれると、柔らかく湯気が立った。
口に運んでから、ページを開いた。 甘さは、控えめだった。三枚ではなかったけれど、彼女にとっては十分だった。
外で、犬の声が、また聞こえた。 本のページを、ゆっくりとめくる。 窓の外の光は、もう一段だけ高くなっていた。今日は、まだ午前八時にもなっていない。